2011.11/24 [Thu]
やっぱり乳がん〜手術(温存)→再手術(全摘)〜
【前回の続き。3年も前の事、何故今頃書いているか?ブログを始めたのが今年の夏からだから~
自分の記録です。】
2008年11月25日 : 入院。看護師さんにベット(5人部屋)に案内されて「しばらくしたら入院中の説明等しに来るので着替えてください」と言われ着替えていると「今日から〜?」と言うどこかで聞いたような声に振り返ると隣のベットと仕切っているカーテンの隙間からあの時のおばさんが覗いていた
orz…このおばさんは左乳がんでこれから手術だと言っていた。1回目の入院中静かだったのはおばさんが手術で部屋にいなかった時と私が手術で部屋にいなかったすれ違った最初の2日間。あとは起きている時はしゃべりっぱなし寝ては歯軋りと鼾で1日24時間静かな時がなかった
2008年11月26日 : 手術。センチネルリンパ節生検で転移なし、術中迅速病理診断で断端陽性で追加切除があるものの予定通り温存。5人部屋で私と隣のおばさん以外は内臓の癌、みんな三分粥だの全粥だの食事制限がある中お見舞いのお菓子など食べられる雰囲気でもなく、病院食も美味しくなくて残してばかりいて入院中2キロ痩せた。そんな中抜糸もなければ傷口の消毒もない、ただただ早く帰りたかった。
2008年12月01日 : 退院。隣のおばさんもこの日に退院だった。何故かこのおばさんとおばさんの前のベットの胃がんのおばさんと私の3人が電話番号と住所を交換する事になった。携帯とメルアドではない、あくまでも固定電話番号と住所である。
それでも過ぎてしまえばなかなかない経験、考えようによっては面白かった。
2008年12月08日 : 術後初めての外来診察、病理結果を聞く日。暢気に「センセに会える〜」なんて浮かれながら診察室に入ったらまた雰囲気がおかしかった。「なんか嫌な事言おうとしている」そう感じた次の瞬間「数箇所断端陽性」と全摘を宣告される。「これ以上きったら温存の意味がない形になってしまう。今の形成の技術はすごいよ。1年位して問題がなければ再建できるよ。その時にはお願いしている病院もあるし」とも言っていたけれど…がん告知よりもショックだった。ありえないことが起きて信じられなかった。診察室で涙が出てきた。センセ「大丈夫?」なんて言っていたけれど、この時私は幽体離脱して診察室の天井からセンセと抜け殻の自分の姿を眺めていた。「胸を切るなんて言われて大丈夫な女がいるわけないだろう」なんて思いながら自分とセンセを眺めていた。こんな事話しても「ショックでどうにかなったのね、可哀相に…」という反応なので話すのやめた。でも本当に幽体離脱していた。気のせいや夢なんかじゃなかった。待合室の椅子に座っている時の身体が床の下、地面の奥深くまで沈んでいくような感覚も忘れられない。
2回目の入院、さすがに年末旦那は仕事を休めず子供達は学校と幼稚園に事情を話して北海道の旦那の実家に預かってもらうことになった。「クリスマスには家族5人でサンタさんが来るのを待とうね」って約束した。
2008年12月16日 : 入院。あまりにも前回から近い再入院で同じ病棟、同じ部屋だったからか手術前日の麻酔科診察に呼ばれた時も看護師さん「場所わかるよね?行って来て」だってさ
わかるからいいけれどね…
2008年12月17日 : 2回目の手術。全摘。何故か術後起こされた時の私の第1声「どれ位かかった?」看護師さんに「早かったよ、43分だった。」と言われた。喉がガラガラして咳き込んで傷口痛んで胸に手を当てた。その瞬間思わず「ない!」って叫んで涙が出てきた。
2008年12月18日 : 部屋に戻る前の朝の回診。見たことも会った事もない男性医師がぞろぞろと4〜5人やってきて全摘手術痕を見て口々に「あ、綺麗綺麗」と言う。これがどうしようもなく悲しくて辛かった。綺麗な訳ないだろう。そんなことは患者に聞こえない所で医者同士で「お前の技術はすごいなあ」とか言って褒めあっていればいいだろう。じゃなければもう少し言い方を考えたらどうなのだ。「治りが早いですね」とかさ
医師達がいなくなった後ボロボロ泣いた。そばにいた若い看護師さん「そうだよね、まだ受け入れられないよね」としばらく手を握ってそばにいてくれた。そんな時にセンセ(主治医)とは別の担当医のY先生が様子を見にやってきて泣いている私を見て何かを察したのか「もう点滴外していいから。自由に動き回っていいよ。その方が気がまぎれるでしょ」と言った。部屋に戻る時に看護師さん点滴外してくれないから「Y先生が外していいって言った」と主張して看護師さんは点滴外すの嫌がって心配していたけれど外してもらった。夕方から手術して翌朝の10時過ぎにはドレーンのポシェットのみで病院内を徘徊していた私。
入院中のある夜、この病院の看護学校の生徒達がクリスマスソングを歌いながら病院の中を回って患者さん達にクリスマスカードをプレゼントしていた。声を押し殺して泣いた。目が真っ赤に腫れた。「あわてんぼうのサンタクロース〜♪」って調子っぱずれに歌う長男、次男を思い出した。まだあどけない顔の看護師さんの卵達を見ていると長女とダブった。早く退院して迎えに行きたかった。
2008年12月21日 : 外泊。事実上の退院。入院中センセとなかなか話が出来ないから私のところに来た先生誰彼構わず捕まえて「ドレーンを抜いて、早く帰りたい」と訴えていた。だって相変わらず抜糸も消毒も投薬も何もしないんだもの。でも、みんな「先生(主治医)に聞いてからね」と言う。「ちっ…またかよ
」なんて心の中で悪態ついていたら土曜の外来を終えたセンセが夕方来てドレーンを抜いてくれた。その翌朝担当医のY先生とI先生が回診に来た時「帰りたい」と訴えた。傷には何も問題ないから退院可能、ただし手続上日曜退院は問題あるから(面倒だから?)という事で外泊にして翌日(22日)戻ってきて退院手続きして正式退院となった。
次回は年明け1月5日の外来で結果と治療方針を話しましょうという事だった。
23日には北海道からお義母さんが子供達を連れてきてくれた。実家の母も1人暮らしでヘルパーさんの助けを借りて生活している状態で乳がんの事は話せなかったのでお義母さんには随分心配をかけてお世話になった。元気なだけが取り柄だった不出来な嫁なのに本当にありがたい事だった。
何とかサンタさんの来訪には間に合ったいつもと同じ、でもその前の年とは全く違う自分でのクリスマスから年明けだった。痛いのは嫌いだけど全摘後、まるで今までもそこに何もなかったかのように何も感じなく痛くなかったのがかえって辛くて悲しかった。
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2008年11月25日 : 入院。看護師さんにベット(5人部屋)に案内されて「しばらくしたら入院中の説明等しに来るので着替えてください」と言われ着替えていると「今日から〜?」と言うどこかで聞いたような声に振り返ると隣のベットと仕切っているカーテンの隙間からあの時のおばさんが覗いていた


2008年11月26日 : 手術。センチネルリンパ節生検で転移なし、術中迅速病理診断で断端陽性で追加切除があるものの予定通り温存。5人部屋で私と隣のおばさん以外は内臓の癌、みんな三分粥だの全粥だの食事制限がある中お見舞いのお菓子など食べられる雰囲気でもなく、病院食も美味しくなくて残してばかりいて入院中2キロ痩せた。そんな中抜糸もなければ傷口の消毒もない、ただただ早く帰りたかった。
2008年12月01日 : 退院。隣のおばさんもこの日に退院だった。何故かこのおばさんとおばさんの前のベットの胃がんのおばさんと私の3人が電話番号と住所を交換する事になった。携帯とメルアドではない、あくまでも固定電話番号と住所である。
それでも過ぎてしまえばなかなかない経験、考えようによっては面白かった。
2008年12月08日 : 術後初めての外来診察、病理結果を聞く日。暢気に「センセに会える〜」なんて浮かれながら診察室に入ったらまた雰囲気がおかしかった。「なんか嫌な事言おうとしている」そう感じた次の瞬間「数箇所断端陽性」と全摘を宣告される。「これ以上きったら温存の意味がない形になってしまう。今の形成の技術はすごいよ。1年位して問題がなければ再建できるよ。その時にはお願いしている病院もあるし」とも言っていたけれど…がん告知よりもショックだった。ありえないことが起きて信じられなかった。診察室で涙が出てきた。センセ「大丈夫?」なんて言っていたけれど、この時私は幽体離脱して診察室の天井からセンセと抜け殻の自分の姿を眺めていた。「胸を切るなんて言われて大丈夫な女がいるわけないだろう」なんて思いながら自分とセンセを眺めていた。こんな事話しても「ショックでどうにかなったのね、可哀相に…」という反応なので話すのやめた。でも本当に幽体離脱していた。気のせいや夢なんかじゃなかった。待合室の椅子に座っている時の身体が床の下、地面の奥深くまで沈んでいくような感覚も忘れられない。
2回目の入院、さすがに年末旦那は仕事を休めず子供達は学校と幼稚園に事情を話して北海道の旦那の実家に預かってもらうことになった。「クリスマスには家族5人でサンタさんが来るのを待とうね」って約束した。
2008年12月16日 : 入院。あまりにも前回から近い再入院で同じ病棟、同じ部屋だったからか手術前日の麻酔科診察に呼ばれた時も看護師さん「場所わかるよね?行って来て」だってさ

2008年12月17日 : 2回目の手術。全摘。何故か術後起こされた時の私の第1声「どれ位かかった?」看護師さんに「早かったよ、43分だった。」と言われた。喉がガラガラして咳き込んで傷口痛んで胸に手を当てた。その瞬間思わず「ない!」って叫んで涙が出てきた。
2008年12月18日 : 部屋に戻る前の朝の回診。見たことも会った事もない男性医師がぞろぞろと4〜5人やってきて全摘手術痕を見て口々に「あ、綺麗綺麗」と言う。これがどうしようもなく悲しくて辛かった。綺麗な訳ないだろう。そんなことは患者に聞こえない所で医者同士で「お前の技術はすごいなあ」とか言って褒めあっていればいいだろう。じゃなければもう少し言い方を考えたらどうなのだ。「治りが早いですね」とかさ

入院中のある夜、この病院の看護学校の生徒達がクリスマスソングを歌いながら病院の中を回って患者さん達にクリスマスカードをプレゼントしていた。声を押し殺して泣いた。目が真っ赤に腫れた。「あわてんぼうのサンタクロース〜♪」って調子っぱずれに歌う長男、次男を思い出した。まだあどけない顔の看護師さんの卵達を見ていると長女とダブった。早く退院して迎えに行きたかった。
2008年12月21日 : 外泊。事実上の退院。入院中センセとなかなか話が出来ないから私のところに来た先生誰彼構わず捕まえて「ドレーンを抜いて、早く帰りたい」と訴えていた。だって相変わらず抜糸も消毒も投薬も何もしないんだもの。でも、みんな「先生(主治医)に聞いてからね」と言う。「ちっ…またかよ

次回は年明け1月5日の外来で結果と治療方針を話しましょうという事だった。
23日には北海道からお義母さんが子供達を連れてきてくれた。実家の母も1人暮らしでヘルパーさんの助けを借りて生活している状態で乳がんの事は話せなかったのでお義母さんには随分心配をかけてお世話になった。元気なだけが取り柄だった不出来な嫁なのに本当にありがたい事だった。
何とかサンタさんの来訪には間に合ったいつもと同じ、でもその前の年とは全く違う自分でのクリスマスから年明けだった。痛いのは嫌いだけど全摘後、まるで今までもそこに何もなかったかのように何も感じなく痛くなかったのがかえって辛くて悲しかった。
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- [乳がん(感じていたこと、感じていること、エトセトラ)]
- TB(0) |
- CO(8)
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明日は・・・
どんな手術も大変ですが、私はこの温存が断端陽性で再手術で全摘というのが、どんなに切なくてお辛いだろうと思うのです。1ヶ月に全身麻酔の手術2回、体力的にも精神的にも本当にお辛かったと思います。胸が詰まる思いで読ませていただきました。3年前の辛くて悲しい涙が、今はいい涙に変わって乳がん4年生になられること願っています。